赤瀾会

1921年4月21日に「私達は私達の窮乏と無知と隷属に沈淪せしめたる一切の圧制に対して、断乎として宣戦を布告するものであります」と宣言し、これを綱領に定めて結成された。
設立世話人は、九津見房子・秋月静枝・橋浦はる子・堺真柄の4人で、顧問格として山川菊栄と伊藤野枝が加わった。
参加者はほとんどが男性の社会主義者を身内にもつ女性で、設立当初は社会主義同盟員の家族を中心に42名だが大部分は名簿上の会員で、実働は十数名と言われている。
会の発足は、治安警察法5条5項の規定で、前年に発足した社会主義同盟に女性が参加できなかったからだと言われている。

イーヴォ・ロビッチ

イーヴォ・ロビッチは、ザグレブで学びながら、歌手としてのキャリアをラジオ・ザグレブ・オーケストラで始めた。
第二次世界大戦中は、ロビッチはザグレブのクルゴヴァルナ・ポスタヤ・ザグレブやエスプラネード・ホテルで歌った。
終戦後、社会主義体制をとるユーゴスラビア社会主義共和国の一部となったクロアチア社会主義共和国でのロビッチのキャリアのなかで、彼は100を超えるレコードを製作し、その多くはシングル盤であった。
彼の母国において、最も代表的な曲は「 Vraćam se Zagrebe tebi」、「Ta tvoja ruka mala」、「Tiho plove moje čežnje」などであった。

松竹ロビンス

始祖は1936年に結成された大東京軍。
親会社は新愛知新聞社傘下の國民新聞社。
新愛知主筆の田中斉が名古屋軍とともに独自で「大日本野球連盟」というプロリーグ結成を企画したもので、会社名は、株式会社大日本野球連盟・東京協会となったが、独自のリーグ構想は頓挫し、正力松太郎により構想された日本職業野球連盟へ名古屋軍とともに加盟した。
球団の会長には元警視総監の宮田光雄が就任し、宮田の指名で元國民新聞記者の鈴木龍二が球団常務となった。
戦後も長くプロ野球界の要職を務めた鈴木がプロ野球と関わりを持ったのは、これがきっかけであった。

ハインケル

1932年のHe70高速郵便飛行機とルフトハンザ航空の定期旅客機が最初の成功となった。
He70はいくつかの速度記録をつくり、He111がそれに続いた。
ハインケルの設計者としては双子のギュンター兄弟とハインリッヒ・ヘルテルが有名である。
ハインケル社は、ロケット機やジェット機の開発においても先駆的な役割を果たした。
しかし、社長のエルンスト・ハインケルがナチスに批判的だったことや、「機体性能を追求するあまり量産性や実用性を軽視する」開発方針に問題があったため、ライバルのメッサーシュミット社に比較してドイツ空軍からは評価されなかった。
ただし、これは主力戦闘機メーカーが格上であるとする価値観からの一方的な見方であって、実際にはドイツ空軍は爆撃機を主力とみなしていた空軍であり、ハインケルが冷遇されていたと言い切るには疑問がある。

最初のCM

日本最初のテレビCMは日本テレビ開局の日の1953年8月28日に放映された、精工舎の正午の時報であるが、当時の放送関係者の証言によると放送機材の操作に慣れていなかったため、フイルムが裏返しだったので、音がまったく出ず、音なしの状態で30秒間放送された。
なお、時報音はフィルムと関係なく挿入されたため正確に出た。
ちなみに同日の午後7時の時報は無事に放映され、これが現存する日本最古のテレビCMである。
翌日の正午、テレビCM第1号になるはずだった正午の時報も無事に放映された。
従来、「3秒で放送中止となった」というのが定説だったが、これは間違いだそうだ。

スコットランドの独立

1296年8月、ロバート親子はベリック・アポン・ツイードでエドワード1世に対して臣従の誓いをしたものの、カーライルで更新する際にこの宣誓は破棄され、翌年にロバートはエドワード1世に対するスコットランドの反乱を支援した。
翌1297年夏、ロバートのもとに、エドワード1世配下の軍司令官で自身とも関係のあったサリー伯ジョン・ド・ワーレンを支援するようにとの急な手紙が届いたが、ロバートはこの命に従おうとはせず、逆にエドワード1世への反乱を支持し続けた。
7月7日にロバートとその盟友は、アーヴァインの降伏と呼ばれる条約によってエドワード1世と妥協した。
スコットランドの領主たちは自らの意思に反して海の彼方の者に仕えることを良しとせず、エドワード1世に対する忠誠の宣言への返答としての新たなる暴力的活動を許容するようになった。

フレデリックデクラーク

国民党の政治家で大統領を務めたこともあるヨハンネス・デクラークの息子としてヨハネスブルグで生まれる。
1958年にポッチェフストローム大学の法律科を卒業。
弁護士を経て、1972年に国民党の国会議員に選ばれ、父の後を継いで政界入り。
1978年に郵政相として初入閣し、その後1982年に内相、NPの旧トランスバール州代表に選ばれた。
1984年からは国民教育相、白人閣僚評議会議長を務めた。
1989年2月、大統領ボータの後任としてNP党首に指名され、同党の次期大統領候補に推挙、8月から大統領代行の後、9月に正式に大統領に選出された。

パトリック・ホワイト

パトリック・ホワイトは、オーストラリアの小説家。
ロンドン生まれ。
登場人物の意識の流れを描く技術に優れる。
最初の著作 “The Ploughman and Other Poems” は1935年に出版された。
彼の作品は12の小説、2つの短編、演劇、ノンフィクションなどがある。
1973年にノーベル文学賞を受賞し、20世紀英語圏の最も優れた作家の一人と見られる。
長い闘病の末1990年9月30日に亡くなった。

エドワード・ポールトン

ポールトンは生涯を通してダーウィン主義者であり、進化の主要な原動力として自然選択を信じていた。
彼はチャールズ・ダーウィンを賞賛するだけではなく、ネオ・ダーウィニズムの父アウグスト・ヴァイスマンを擁護した。
ポールトンはヴァイスマンの研究を英語に翻訳した生物学者のグループの一人であった。
彼は生殖質の連続性についてヴァイスマンのアイディアを支持した。これらを翻訳する間に、彼は種形成に関する獲得形質の役割を近年の研究が排除したか、あるいはそれを支持する研究が減少したことに気付いた。
1896年のダーウィンに関する著作では、ポールトンは『種の起源』を生物科学的な視点から「比類無くもっとも素晴らしい研究」と述べた。
自然選択の批判者でもそれを理解するのに時間がかからなかったと主張した。
これは彼の時代にはそうで無かったが、現代では一般的な評価である。
当時、遺伝メカニズムに関する知識の欠如は進化自体の理解の妨げとなっていた。

ラザフォード・ヘイズ

1876年、ヘイズはアメリカ史上最も議論を呼んだ選挙の結果大統領に就任した。
彼は民主党候補、サミュエル・ティルデンに一般投票では敗れたものの、選挙委員会が資格に疑問の余地があった選挙人票20票全てをヘイズのものとし、ヘイズは選挙人選挙を185対184で制し、僅差で大統領の座を得た。
結果は1877年の妥協となり、民主党はヘイズの選挙を黙認し、ヘイズは南部の軍事占領の終わりを受け入れた。
ヘイズは能力主義の政府、人種に関係ない平等な待遇、および教育による改良を信じた。
彼は1877年の鉄道大ストライキを鎮圧するよう連邦軍に命じ、レコンストラクションが終了すると連邦軍の南部撤退を命じた。
彼は1880年代から90年代にかけて控え目な官庁改革を実行し、それは更なる改革のために土台となった。
ヘイズは大統領再選に出馬しないという誓いを守り、オハイオの自宅に退き、社会および教育改革の支持者となった。