フレデリックデクラーク

国民党の政治家で大統領を務めたこともあるヨハンネス・デクラークの息子としてヨハネスブルグで生まれる。
1958年にポッチェフストローム大学の法律科を卒業。
弁護士を経て、1972年に国民党の国会議員に選ばれ、父の後を継いで政界入り。
1978年に郵政相として初入閣し、その後1982年に内相、NPの旧トランスバール州代表に選ばれた。
1984年からは国民教育相、白人閣僚評議会議長を務めた。
1989年2月、大統領ボータの後任としてNP党首に指名され、同党の次期大統領候補に推挙、8月から大統領代行の後、9月に正式に大統領に選出された。

パトリック・ホワイト

パトリック・ホワイトは、オーストラリアの小説家。
ロンドン生まれ。
登場人物の意識の流れを描く技術に優れる。
最初の著作 “The Ploughman and Other Poems” は1935年に出版された。
彼の作品は12の小説、2つの短編、演劇、ノンフィクションなどがある。
1973年にノーベル文学賞を受賞し、20世紀英語圏の最も優れた作家の一人と見られる。
長い闘病の末1990年9月30日に亡くなった。

エドワード・ポールトン

ポールトンは生涯を通してダーウィン主義者であり、進化の主要な原動力として自然選択を信じていた。
彼はチャールズ・ダーウィンを賞賛するだけではなく、ネオ・ダーウィニズムの父アウグスト・ヴァイスマンを擁護した。
ポールトンはヴァイスマンの研究を英語に翻訳した生物学者のグループの一人であった。
彼は生殖質の連続性についてヴァイスマンのアイディアを支持した。これらを翻訳する間に、彼は種形成に関する獲得形質の役割を近年の研究が排除したか、あるいはそれを支持する研究が減少したことに気付いた。
1896年のダーウィンに関する著作では、ポールトンは『種の起源』を生物科学的な視点から「比類無くもっとも素晴らしい研究」と述べた。
自然選択の批判者でもそれを理解するのに時間がかからなかったと主張した。
これは彼の時代にはそうで無かったが、現代では一般的な評価である。
当時、遺伝メカニズムに関する知識の欠如は進化自体の理解の妨げとなっていた。

ラザフォード・ヘイズ

1876年、ヘイズはアメリカ史上最も議論を呼んだ選挙の結果大統領に就任した。
彼は民主党候補、サミュエル・ティルデンに一般投票では敗れたものの、選挙委員会が資格に疑問の余地があった選挙人票20票全てをヘイズのものとし、ヘイズは選挙人選挙を185対184で制し、僅差で大統領の座を得た。
結果は1877年の妥協となり、民主党はヘイズの選挙を黙認し、ヘイズは南部の軍事占領の終わりを受け入れた。
ヘイズは能力主義の政府、人種に関係ない平等な待遇、および教育による改良を信じた。
彼は1877年の鉄道大ストライキを鎮圧するよう連邦軍に命じ、レコンストラクションが終了すると連邦軍の南部撤退を命じた。
彼は1880年代から90年代にかけて控え目な官庁改革を実行し、それは更なる改革のために土台となった。
ヘイズは大統領再選に出馬しないという誓いを守り、オハイオの自宅に退き、社会および教育改革の支持者となった。